こんにちは。
高野直人(こうのなおと)です。
ナイーブな心を持っている人ほど、
「この社会は理不尽だ」
ということをよく言います。
実際に起こっていることが、
現実なのに、
その現実を受け止めきれず、
頭の中の理想や期待と比べて、
現実に不満を抱き、
それを否定しようとするのです。
こういう人たちにとっては、
自分にとって理想的な状態や、
期待した通りに収まる状態こそが、
デフォルトで、
そうじゃないことは、
例外であり、異常である、
という認識なのでしょう。
つまりは、
社会や他者への信頼や、
期待が大きすぎるから、
悲しみや憤りを感じたり、
ガッカリすることが多いんですね。
人間とはそれほど、
完璧な存在ではありませんし、
社会とは常に道理が通るほど、
シンプルなものでもありません。
もちろん、
理不尽なことは、
なければない方が良いし、
正せることは、
どんどん正していけば、
良いと思いますが、
大人になるにつれ、
人間のどうしようもなさとか、
社会の複雑さを深く理解するにつけ、
「どうにもならないことがある」
ということが腑に落ち、
その現実を徐々に受け入れていきます。
そして、
力の及ぶ範囲で、
道理が通るように、
ベストを尽くし、
どうにもならない現実とは、
折り合いをつけて、
バランスをとった生き方が、
できるようになります。
ところが、
潔癖すぎたり、
完璧主義になってしまうと、
ちょっとした人間の過ちや、
物事のしそこないを、
許せなくなります。
そういう人たちにとって、
この社会は悲しみと憤りに、
満ちたものになります。
そうすると、
だんだんと社会に対して、
恨みを抱くようになり、
生きづらさを感じ始めます。
社会の理不尽さに直面すると、
人は力を失います。
その時に、
ただ絶望し、脱力して、
「何も信じられない」
「社会は生きるに足るものではない」
といった極端な結論や、
ニヒリズムに堕してしまう人もいれば、
仲間を探し、
試行錯誤しながら、
自分が力を得られる、
源泉のようなものを、
探し続ける人もいます。
この辺りの違いは、
メンタルが健全であるかどうかが、
分かれ目になるのかもしれません。
理不尽な出来事に直面した時に、
ただ、それに不満を抱き、
それを否定して憤慨するだけなのか、
それとも、
それをキッカケに、
社会や人間の業を見つめ、
自分の物事の認識のクセや、
反応パターンを見つめ直すのか?
自身のメンタルと、
向き合っている人にとっては、
あらゆることが学びと気づきの
材料になりますね。
高野直人
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