音楽ライフコーチングの高野(コウノ)です。
「自由が欲しい!」「自由になりたい!」 という言葉をたまに耳にします。
また、「経済的自由、時間的自由を得よう!」と謳った本やセミナーなんかも、たまに目にします。
こういう言葉を聞くと、私は不思議に思います。
日本に住む私たちには、さまざまの自由が保障されています。
たくさん稼ぐ自由もあれば、ゆっくり過ごす自由もあります。
選ぶ自由が保障されているのに、「自由が欲しい!」「自由を得よう!」と言っているのです。
おかしいと思いませんか?
私たちには、雇われる自由もあれば、雇われない自由もあります。
「雇われる」ということは、
・ある程度、安定収入を保障され、
・何もかも自分でやらなくて良い、
ということと同時に、
・自分で上司や部下を選択できず、
・労働時間や時給を他人に決められ、
・時に上から理不尽な要求をされる、
ということを自分で選んでいるわけです。
変な上司や部下にぶち当たることも、通勤や残業にストレスを抱えるのも、雇われる状況を選んでいる限りは確率的にあり得ることです。
それは全く理屈通りのことですから、悩むべきことではありません。
その人の選択の結果じゃないですか。
悩むとしたら、現実認識が甘かったか、覚悟が足りなかったから悩むのです。
嫌ならやめれば良いし、やめて困るのなら続ければ良いでしょう。
「雇われない生き方」だって同じです。
「雇われない」ということは、
・誰にも命令されず、
・働く時間も給料も仕事相手も自分で決められる、
ということと同時に、
・失敗すれば全くお金が入らず、
・全ての責任を自分がとる、
ということを自分で選んでいるわけです。
努力してもうまくいかないことは、確率的にあり得ることです。
それは予め分かっていることなのですから、悩むべきことではありません。
その人が自由に選んだ結果なのですから。
嫌なら努力するか、やめればいいのです。
「自由」とは、「楽になること」ではありません。
束縛から逃れたなら、その束縛から得ている恩恵も手放すことになります。
そして、何かを得るなら、何らかの束縛がそこについてくるのです。
「自由」とは、「自分で選択できること」であり、その選択の結果を自分で受け入れることや、自分の行動の責任を自分でとることが前提なのです。
もし、自由に生きられていないと思うのなら、それはエフィカシーが低いからです。
そして、やや極端な言い方をすれば、洗脳されているからです。
「自分には無理だ」と思うから、やりたいことがあってもできず、自己責任で生きられず、
「空気を読むべし」とか、「世間の言うことは聞くべし」などと、法律以外の余計なものに縛られているから、本来やって良いことまで自己規制してしまうのです。
結局は、マインドの問題です。
日本の教育は、とにかく「前倣え」であり「上に従え」であり、「自分で判断せずに、上に従い全体に従う」という依存精神を植えつけます。
誰かから答えをもらうことや誰かに決めてもらうことに、あまりにも慣れ過ぎているから、「どうしたら良いですか?」とすぐに聞くのです。
私たちは、本源的には自由であり、法律的にも様々の自由が保証されています。
あとは、自分が何を選ぶのか?
盲目的に誰かに従うのやめ、他人の意見を聞いたとしても最後は自分で判断して自己決定し、その選択の結果を受け入れ、責任を取れるようになった人が本当の意味で自由な人なのだと思います。
▼より詳しいお話はメルマガで▼
0コメント